馬である必要はなかった。

が、馬が馬としての現実で立っている以上、肯定するしかない。

わたしたちには、すべての事共に対し否定するということは叶わない。

ついに肯定も的外れとなれば、果たしてとめどなく途方に暮れ、                                                        

                      半ば自由となる。

明るく顕われたもの、暗く顕われたものとの間に存在としての差異はなく、

あらかじめいい加減に出来ている眼球はそんな些事に惑わされ続け、

心を沈めたり、晴らしたりと他律的に喧しい。

多くの「見る」はそれに終始する。

もし、「必要なことだけが起こっている」というなら、

立ち消えになった不必要なごみ達の消し切れない像に触れようというのは                                                     

                         馬鹿げた徒労か。

写真家ごときに、愛や美や発見など聞かされたくない。

                       

                                                       2010.9.17 for TOKYO PHOTO


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエス

                 2010.3.3(水) - 3.28(日)13:00 - 20:00 月、火休 lodge / 東京 台東区

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眼に入るものはすべて、写真の選択肢から外していない。ただ気がつけばソープランドや

ホテル街の女性の像やレリーフを多く撮っていた。ある時、そういえば「焼跡のイエス」って短い小説があったなと思い、ならばこれら彼女らは、さしずめ  

「yakeato no mary」 「gomitame no mary」 と腑に落ちたような気になってみた。それから、イエスという、音節だけが纏わりついてくる。

肯定にも聞こえない、否定にも聞こえない。ただその短い音の響きだけがそこに、眼の前に横たわり、自分にとってだけ命を持ったかのように見えた。

                                                                        2010.3.17.Wed.1728

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こころ

2010.12.10 - 12.26(金、土、日のみ)                         2011.1.8/9/15/16                                 16時−20時   lodge / 東京 台東区

 

 

 

 

 

 

 

 

きのう小田急線下りで擦れ違った男はだれなのか。

先月秋葉原、自動販売機の裏で眼を合わせた女はだれか。

そのひと欠片の動きの中に、己らしき者の動きの中に、ある幻想を形づくる、

その先のまるで嘘のように現実に顕われる動きの中の中心が、

いつもここにそこに向こうに蠢いてある。

限定された現象体としての器の動静が我々となり、我々はまたひとつの徴候にすぎず、

徴候が徴候と絡み合い前のめりに、展開されるとき晒されるとき現実と呼ばれる面が開く。

こんなはずじゃなかったんだ、と吐くときの、

ほら思った通りだろ、とほくそ笑むときの、

洩れ出す醜い全体を纏った生きものが自分を追いかけ廻したあげく、

すぐそこの電信柱の陰に潜む。

 

                           2010.12.05.0946 黒田光一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   2011.3.15 - 4.3 AKAAKA / 東京 清澄白河 

 

 

                                          2011.3.8 記

 

 

 

 

峠   TALK EVENT

 

3.20(日) 16:00 -   若林恵 (編集者) × 黒田光一

 

3.27(日) 16:00 -   園子温 (映画監督) × 黒田光一

 

4.2(土)   16:00 -   今井智己 (写真家) × 黒田光一

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

滝壺

  2012.6    峠 / 東京 台東区

 

 

 

     自覚なく、その実、真っ逆さまに落ち往くというあらかじめプログラム

     された特性を共々歩いている。

     

     肥大し切った上昇への欲求だけが、

          「現在」というマイナス無限大の容器の中で暴れ空廻り

     時おり輝くかのように映る。確かに輝いた。

     

     数年前の、数秒前の

     「過去」の堆積が、

     数時間後の今に何気ない顔つきで

     並び入り、肉体を

     軋ませる時、込み上げてくる笑い

     を連れて光る。

     

     おのおの身勝手に発注したはずの顔はすべて同型。

     同じ顔が街に溢れる。

     道はある、やっぱり逃げ道などなかった、と安堵する。

     

     固定することのない地上の流れが

     集約されたれっきとした自然物、人間は始まりからずっと恐怖の

     生きものだ。                                                             20120624   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013.4.27、28、5.3~6    峠 / 東京 台東区

 

 

 

 

 これは葉や石や人やビルや車、か、境ない一個分のそれ。

 

日本の窓から、アメリカの窓から雨が垂れる。

 

ああ、そうだったと合点がいき、かつてあったことばかりを繰り返すのは、

歩いて来た道が正しいと思い込む方法だ。

 

雨が垂れ体へ、運ぶ先々でも垂れる。

 

写真とは物乞いなんだ。

ものを乞うことでしか居られない。

 

道に留まる、立つ、

真ん中あたりにある。

                                2013.5.2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ballistics                                                2005 10.15(土) - 29(土) art & river bank  東京/大田区

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 具体的な像としては写ってこない、集団の幻想を抱え込んだ憎悪や根源的な悪意は、例えば武器のフォルムそのものや発射された実弾の閃光に結実しているのではないか。

 とりもなおさず、これら光の像は我々自身の意識の集積であり、人間が地球上の生物として弱過ぎたがゆえに手にしたもの ー その到達点としての武器、武装とは、この地上における最も人間らしい営みのひとつである。

 集団の暴力でありながら、個人の暴力でもあるという行き場のない曖昧な局面の中にある光、あった光。しかしまた、それらは何ら核心を含まない、人間の取るに足らない上澄みでしかないようで、 そんな “ただ” の光に対しては、であれば、やはり途方に暮れるしかないのだ。

   

                                   黒田光一

 

 

 

 

黒田光一の「ballistics」は、夜空に描かれた砲弾の軌跡を捉えた写真作品です。

「弾道学  ballistics」というタイトルが示すように、夜間、発射された砲弾は、見事な輝線を漆黒の天空に描きます。肉眼で眺めれば、ただ忙しく闇と閃光が繰り返されるだけのはずの虚空に標される鮮やかなライン。それは、不覚にも美しいという感情を見るものに与えます。しかしほぼ同時に、わたしたちはすぐその背後に迫っている戦争の影に気づくことになります。そして、美しいという感情を憂鬱な気持ちによって覆い尽くさなくてはならなくなります。一瞬、そのものの美しさで輝きはするものの、それによって傷つけられる対象や、そうした戦闘を必要としなければならない社会、そして、幾度となくそれを反省しつつも、結局そうした愚行を繰り返してきた人類そのものの哀れさへと、一気に意識は覚醒していくことになります。わたしたちが見つめる黒田の捉えた軌跡は、もはや弾道そのものではなく、ことによると人類そのものの辿ってきた、そしてこれから辿っていくことになるかもしれない道筋なのかもしれません。

 

黒田の「ballistics」は陸上自衛隊の北富士演習場で撮影されたものです。富士山というシンボリックな場所に抱かれた演習場。けれども、日常の生活の中でその場所が意識に上がることは余りありません。不思議なことに富士山は、そのあまりの象徴性のゆえなのか、周囲にあるものを目立たせなくする効果があるようです。自死を望む人々が目的を果たすとともに、目的を果たした自らの身体を隠すために訪れる樹海や、かつて社会への敵対心を剥き出しにしたカルト教団の本拠地が、その裾野にあったことはまったくの偶然ではないのかもしれません。もちろんだとすれば、黒田が見つめた演習場も、何かを隠蔽するためにその地に位置しているのかもしれません。では何を隠蔽しようとしているのでしょうか。平和憲法を掲げる国家が密かに抱き持つ軍隊を?  軍事行動という直線的かつ男根的な欲動?  あるいは戦闘という今日まで決して逃れられることのなかった人類の愚行を?  いずれにしても黒田は、その死角に足を向け、そして天空に描かれた軌跡を眺めたのです。

 

黒田が示そうとする「弾道学」は、字義通りの弾道ではなさそうです。それは、わたしたちの歩んできた軌跡であり、そしてこれから歩んでいくことになる軌跡のようです。わたしたちは、演習場や戦場を支配する力学に多大なエネルギーを注ぎ込んで有効な弾道学を構築する前に、わたしたち自身の軌跡をどうするべきなのか、そのことを見つめていく必要があるようです。黒田が切り取ってみせた虚空の軌跡は、静かにその必要性を突きつけています。

 

                        art & river bank  展覧会テキスト

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                            村越としや、小野淳也、吉原かおり、黒田光一                       2013.12.17 - 23     峠 / 東京 台東区

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  峠