20120203
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                                 201112

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

STORYBOX28:阿川大樹,飯嶋和一,北上次郎,五條瑛,笹本稜平,嶽本野ばら,野島伸司,三羽省吾,室積光,黒田光一 ¥500  忙中ほっと一息!ポケットサイズの文芸誌『STORYBOX』12月発売号。小学館。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                SANKEI  EXPRESS  20111029

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とどの詰まりは言葉だった。
だから言葉などに構っていたら死んでしまう。
気違いが気違いを恐れるように、
写真は写真を払い叩きのめす、しかないという哀れ。
楽しいことなんて何もない、
なんてことはない。
楽しいことの脅迫、がんじがらめがあるだけだ。
                                       
                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                 201103

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20111012 産経新聞 朝刊 「After 3.11 」 - 4

                           2011 09 福島県相馬市

 いまも、膨大に撮られ続ける「写真」という、その大半が行き場のない塵(ちり)のようなものたち。例えば個人や報道を含めて3月以降に撮られてきた被災地の写真があり、一方に「被災地でカメラを向けて写真作品なんて撮れない」と口にする写真家が撮る“そうでない場所”の写真も日々増殖する。しかしそのいずれも、やはりこの2011年にあっては同根のはずであって、その身がどこにあっても撮るということは土壇場、崖っぷちのはずだ。

 あれからすべて何もかもが変わったわけじゃない。3月以前と3月以後は分断などしていない。東京、福島も地続きだ。

 こうしているうちにも15分に1人がどこかで自死してゆく国に自分たちはしばらく生きている。だがそんな状況が突然あらわれるわけもなく、これまでの自分たちの振る舞いに呼応して始まり進んできたはずだ。

 写真が目指すものは何か。簡単に言葉にはならない。人目を引くためのゲームや論理の遊びなら、得意な人間に任せておけばいい。記録、現実の複写…、その通りだろう。ただ、現実の追認を超えられないという写真の本質に甘んじるなら、自分がやり続けていく意味はない。

 あらゆる表現(会話や行動も)は、個人の思惑とは関係なく、その時々の流れにおいてそれ自体が動いていく方向に、手を離せば向かっていく特質を持っている。写真もそうだ。その時点にしかあり得ないある兆候を孕(はら)みながら動きつつ、何か得体(えたい)の知れない、“写真”ではないものに変質していく。その実体を手にしたいがために、塵を集める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                   2011 03 東京

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20110817  産経新聞朝刊  After 3.11   -3 

 写真家などというのは、おしなべて無断借景の常習犯で、かつ悪びれもせずもっともらしい能書きを張り付け、作品と呼ばれるものに仕立てあげ、己の世界観として内的外的に所有する。前時代から続く“写真作品"という概念の持つ質や重さから逃れようと、デジタル時代の意識を提示する者も同様だ。一見それはクールな遁走に見えても、フォーマット、流儀、流通を組み替えただけに他ならず、「作品」と呼ぶ以上、その本質に何ら変わりはない。

 

 カメラという機械=制度に依存する限り、そんな風にしか生まれ出てこない"写真"というもの。それが社会通念の中で"作品"と呼ばれるために暗黙の了解があるとすれば、「語るべきもの」ないしは「語られるべきもの」が備わっている、という点になるだろう。しかし、もしそれがなかったとしたら、作品として自律できないということなのか。
 
 被災地で撮り、選び、仕上げ、他者に提示している自分の写真がここにある。
 
 自分の写真は語るべき内実を持たない、語られたがりもしない。眼前にあるものの表面の像/光跡を採取していくという行為の連続があるだけだ。では、それは一体何に有用だというのか。考えても考えても、やはり無用だ。そもそも写真が有用なもので、意味が他者に共有されねばならない理由がわからないので、無用であることの是非も自分にはわからない。
 
 そんな無用である自分の写真が、そして写真以前の意味や関係性、物語が付着していない風景の欠片が、現にこうやって転がり存在しているという様に、少なくとも自分の精神は救われているんじゃないだろうか。これは諦念でも虚無でもなく、解放なのだと思う。それが明瞭になってきたのは“今"だからか、いや、無関係なのかもしれない。



 



『藤岡亜弥 × 黒田光一 × 姫野希美(赤々舎代表)』      トークショー     8/20(土)  19:30~

藤岡亜弥 写真展「Life Studies」クロージングの日に、そして清澄白河AKAAKAのスペース最後の日、とどめに写真の話。話せるのか。藤岡さんのスライドショー「さよならを教えて 番外編」も上映。黒田光一のスライドショーも仮予定(未定)。無料で予約不要。いろいろ、おしまいです。  

 

会場  AKAAKA   http://www.akaaka.com/  

地図 http://www.akaaka.com/gallery/g-info.html

 

 

 

 

 

『For Japan』

という、8/2~8/5、ロンドンのHotShoeギャラリーで行われるチャリティオークションの展示に参加。

http://www.hotshoegallery.com/upcomingexhibitions/for-japan-open-submission/

 

 

 

 

 

 

東北スライドショーツアーがあります。

基本8名の写真家が新作で回ります(最終日の東京では15名で4時間くらい)。

 

7/31(日)  青森 八戸ポータルミュージアムはっち

8/1(月)    秋田  coco laboratory
8/2(火)    岩手 花巻市定住交流センターなはんプラザ
8/4(木)    山形 山形まなび館 MONO SCHOOL
8/5(金)    福島 アピオスペース
8/6(土)    群馬 ベーカリーカフェ レンガ

8/7(日)    東京 AKAAKA

 

http://akaaka.com/tohoku-tour/overview.html

 

 

 

 

藤岡亜弥 写真展「Life Studies」

 

2011.7.23(土)~8.20(土)  AKAAKAにて開催中。

 

在住のニューヨークで撮影した新作「Life Studies」と、20年前に制作された未発表作「アヤ子江古田気分」、 2つのシリーズを中心に展示されてます。展示作業を少し手伝いました。

http://www.akaaka.com/gallery/g-current.html

 

 

 

 

 

 

 

 

6.22(水)  産経新聞 朝刊、連載「After 3.11」2回目。写真/文  黒田光一

web版 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110622/dst11062207500007-n1.htm

1回目 → http://sankei.jp.msn.com/life/news/110512/art11051215120006-n1.htm

                                       20110620

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福島、相馬。家の跡、人の跡、波の跡、冷えた雨で気は落とされるも、見るということを短時間の内に重ねれば、頭などすぐに茫洋と麻痺し始める。写真などいくらでも奪取できる。なぜか。人間という生き物の特性か、個人的な欠落か、社会訓練の賜物か。そもそも写真を撮ることなど、誰にとっても簡単なことだ。日本中、世界中で吐き気がするほど押されているシャッターの内の取るに足らない塵のそのまた一片だ。それがこの場においては一見岐立したようにさえ見える。本当のわけはない。「本当のわけ」がないと知りながら、僕たちは写真を撮っている。現にそこに横たわり“ある”時間と空間、ないしはそこに身を晒した者だけが感じ得る生の局面の手つかずを現実というのなら、写された(移された/映された)現実は二次、三次の現実である。ついには、死んでもなお本当のことはわからない。ただ、その虚飾らしき内実のそのまた内奥に、欠片だが本当のことを匿い、露にし、宿しているのが写真なのか。だから2011年の春、未だに“写真”を撮っている。

                                          20110508

 

 

 

 

 

 

2011 0315 - 0403         峠は終了          akaaka

◯ 黒田光一 写真展     「峠」            2011.3.15~4..3   東京 清澄白河 AKAAKA

                          OPEN 12:00~18:00   会期中無休。

トークイベント 1     3.20(日)16:00~            黒田光一 × 若林恵(編集者)

トークイベント2  3.27(日)16:00~         黒田光一 × 園子温 (映画監督/「愛のむきだし」            「冷たい熱帯魚」)

トークイベント3   4.2(土) 16:00~                黒田光一 × 今井智己(写真家)

 

 

 

 

2011.1.20(木)入谷、六本木 → 2.25(金)渋谷、新宿、池袋へ。

 

歩くことに区切りを持てない。

が、なぜか ‘ここは峠’ と知らされる時があり、
それは逃げるようにふっと消える。
もっともらしく整った景色の中を行く。
生き物と、やはり生き物の自分との
夥しいクラッシュの痕跡がありあり透けて見え出す。

さも軽快に「人間の髄を見たんだ」と笑い転げ、

阿呆のように爽快に一日中歩き廻れればいい。
もはや道もなくした風の僕たちは、
なぜ未だに写真なんてものを撮っているのかと考え、
腑に落ちたことはない。
本当に誰にでも必要なものは、
スーパーでもH&Mでも、近所のごみ溜め、自分の足跡にも、
いつだって山積みだ。

 

                          2011.3.8  黒田光一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒田光一 写真展 「こころ」                                      

2011年1月・・・・8(土)、9(日)、15(土)、16(日)                16時〜20時。

            [会場]    東京都台東区千束4-45-3       Tel.050-3115-6470

きのう小田急線下りで擦れ違った男はだれなのか。

先月秋葉原、自動販売機の裏で眼を合わせた女はだれか。

そのひと欠片の動きの中に、己らしき者の動きの中に、ある幻想を形づくる、

その先のまるで嘘のように現実に顕われる動きの中の中心が、

いつもここにそこに向こうに蠢いてある。

限定された現象体としての器の動静が我々となり、我々はまたひとつの徴候にすぎず、

徴候が徴候と絡み合い前のめりに、展開されるとき晒されるとき現実と呼ばれる面が開く。

こんなはずじゃなかったんだ、と吐くときの、

ほら思った通りだろ、とほくそ笑むときの、

洩れ出す醜い全体を纏った生きものが自分を追いかけ廻したあげく、

すぐそこの電信柱の陰に潜む。

 

                           20101205.0946 黒田光一

 

 

◯ lodge  写真展  第二回    

       こころ         黒田光一         

2010.12.10(金) - 12.26(日)  金、土、日のみ 夜6時〜8時   

 

 

 

 

◯ 12.19(日) 清澄白河 AKAAKAにてトークイベント。

一部 14:00〜  澁谷征司 × 黒田光一 × 姫野希美

二部 17:00〜  澁谷征司 × 近藤一弥(アートディレクター)

澁谷征司写真展「DANCE」(開催中 12:00-20:00  12.25まで。 月祝休)に際し、この日に連続して二つのトークショーが行われます。澁谷さんは同名の写真集も刊行されました。

 

 

                

 

 

 

TOKYO PHOTO 2010に参加。

9/17(金)~9/20(月・祝)     Roppongi Hills | academyhills 40           http://tokyophoto.org/#10

 

 

馬である必要はなかった。

が、馬が馬としての現実で立っている以上、肯定するしかない。

僕たちには、すべての事共に対し否定するということは叶わない。

そしてついに肯定も的外れとなれば、果たしてとめどなく途方に暮れることとなり、   半ば自由となる。

明るく顕われたものと暗く顕われたものとの間に存在としての差異はなく、

あらかじめ相当いい加減に出来ている僕たちの眼玉はそんな些事に惑わされ続け、

心を沈めたり、晴らしたりと他律的に喧しい。

もし、必要なことだけが「起こっている」のだというのなら、

立ち消えになった不必要なごみたちの消しきれない像に触れようというのは       馬鹿げた徒労なのか。

写真家ごときに、愛や美や発見など聞かされたくない。

                                                                                                                                              2010.9.17 黒田光一

 

 

 

 

 

 

 

 

  眼に入るものはすべて、写真の選択肢から外していない。ただ気がつけばソープランドやホテル街の女性の像やレリーフをすこしだけ多く撮っていた。ある時、そういえば「焼跡のイエス」って短い小説があったなと思い、ならばこれら彼女らは、さしずめ  “焼け跡のマリア” “ごみ溜のマリア”か、と腑に落ちたような気になってみた。それから“イエス” という語の響きだけが纏わりついてくる。イエス、その人のことではない。自分には殊更の肯定にも聞こえない、この言葉。否定の語であったとしても関係なかった。ただその短い音の響きだけがそこに、眼の前に横たわり、自分にとってだけ命を持ったかのように見えた。                                                                                                                 20100317Wed1728      

 

 

                           

 

 

 

 

 

 

◯ 私家版写真集「イエス」。            ※写真集「弾道学」(AKAAKA)については

 A4  カラー38ページ  インクジェットプリント、タイトル/著者名はスタンプインクにて直押し、署名、通し番号入り、ジップパック密封シーリング。ご希望により、ご購入された方の名前をお入れします。このページの下に進むと内容が出ています。

価格  ¥5,500(送料込)。銀行振込み(UFJ)か、ゆうちょ銀行振込み、ご都合のよい方を明記し、こちらからお申し込みください。

 

 

 

 

 

 

20100328.2000  lodge 第一回写真展「イエス」 終了 。                以後、未定。

◯  特製もつ鍋(てっぽう、はつもと、こぶくろ、など生から)、もつ焼、がつ刺し、         たこのあたまなどと共に

              各種 酒の用意、承ります。  

                               お問い合わせ

                                      20100329

                                    ギャラリー詳細     → lodge

 

 

 

 

 

 ◯私家版写真集『イエス』

 ◯藤岡亜弥    写真集『私は眠らない』 AKAAKA

2009  赤々舎 刊             署名入り ↑   4部のみ在庫。 ¥5,250

 

 

    ◯lodge 第一回 写真展

         黒田光一         イエス

2010.3.28(日)まで      13時〜20時          月火 休          3.22月祝は開。

写真集「弾道学」(2008年 AKAAKA)以降、主に2009年に撮影された写真を中心にした展示です。

 

 

  ◯通常時、酒などあります。ほか、もつ煮込み(てっぽうなど生から、

 土日)、 がつ刺しなど。

 

                              →   lodge詳細